2019年のシーズンをもって18年間のプロサッカー選手の現役生活に終止符を打った坪井慶介。
全日程終了後、これまでのサッカー選手としての歩みや、山口への思いなどを聞いた。
(インタビュアー=田辺久豊、インタビュー日=2019年11月29日)
レノファ山口で初出場した2018シーズンの開幕戦(2018年2月25日、第1節・ロアッソ熊本戦) 写真提供/レノファ山口
――現役生活お疲れ様でした。
ありがとうございます。
――公式戦の最終戦が終わりましたが、今の心境は
今はもう充実感っていうか、安堵感っていうか、あ、終わったなっていう感じです。
―――その安堵感は試合がもうないっていうところからですか
そうですね、今までは次の試合のことを常に考えていたので。シーズンが終われば少しゆっくりして、さあ来季に向けてっていう感じだったのが、もうそれを考えなくていいので、ちょっと気楽です。
――レノファの最終戦(11月24日、第42節・徳島戦)、久しぶりに先発してフル出場されました。ゲームの感想としてはどうですか
まあ、やられてしまったなっていう。もちろん徳島さんは非常にいいチームでしたけど、それでもやっぱりもっと食い下がりたかったですけどね。0-3という結果ですから、力の差は事実として受け入れなければいけない部分もありますし、その差がじゃあ何なのかっていうと、もしかするとそんなに大きな差じゃなくて小さなものかもしれないですけど、勝敗を分けるのは結局その小さな差の積み重ねかもしれないですし、そこの難しさを感じた部分もあります。
――現役最後の試合ということで、高ぶるものもあったんじゃないですか
そうですね。フル出場させてもらえましたし、だんだんと残り時間が少なくなってくると、ああ、もう終わりだって。頑張んなきゃって。このまま0-3で終わっていいのかって、自分に。1点でも2点でも返して追いつくって。このままじゃだめだ、このままじゃだめだって言い聞かせながら…。
――試合終了のホイッスルを聞いた瞬間は
まずは自分が終わったということより、敗戦が悔しくて。そこからちょっとしてからです。ああこれ俺の最後の試合だって。プロとして最後の試合で下向いて終わるわけにはいかないって思っていたので。
――試合が終わった後、最後までサポーターが名前をコールしてくれました。あの時の心境は
本当にありがたいです。勝利っていう結果で応えることがベストだったんですけど、残念ながらそれを叶えることはできなかったので。彼らに一礼して手を挙げることがあの時できる僕の精一杯の感謝の気持ちっていうか。徳島までたくさん来られていましたから。
現役最後の試合となった徳島ヴォルティス戦(2019年11月24日、第42節) 写真提供/レノファ山口
――ちょっと昔を振り返って話をお聞きしたいんですが、坪井さんはどんな子どもでした?
一言で言うと、活発。とにかく動いてる。もう意味もなく。
――じっとしてるのがイヤ?
そうなんです。昔の写真でよくあるんですけど、親戚が集まって結構な人数がそろってみんなで集合して写ってるんですけど、僕だけ首がわーって。顔が写ってないとか。ぼやけてるとか(笑)。どこか行ってもすぐにどこか遊びに行っちゃってなかなか帰ってこないとか。
――そういう子供だったんですね。走るのも好きだったんですか
好きでした。
――そういうご自身の性格がお子さんにもありますか
そうですね。わりと次男坊はそうですかね。長男はもう中2なので、わりとしっかりしてきています。
――次男に坪井慶介が出てきている
自分も次男なので、そこに通ずるものがあるのかもしれないですね。
――娘さんは?
娘は好き勝手にやってる感じです。よくあるじゃないですか、上ふたりが男で一番下の女の子。もう好き勝手にやってますよ(笑)。
――坪井さんがサッカーを始めたのはいつごろですか
小学3年からです。
――そこからずっとサッカーに打ち込んできた
そうですね。
――挫折しそうになったことは?
あんまりないですね。基本的にはずっとサッカー中心の生活でしたね。
――子どものころから今みたいにストイックに取り組んでいたのですか
一緒にサッカーやってた友だちと大人になって話すと「そういえばお前よく練習してたな」とか「よく走ってたよな」とか言われることがあります。ストイックにやってるっていう感覚はその当時はまだなかったですけど。
――人一倍練習をしていたんでしょうね
僕よりうまい子はいっぱいいたんですよ。なので練習するしかない。そいつらに勝つには。もちろん走るのもそうですし、練習量もそうだなと思ったんで。
――子どものころにそういう事を自分なりに感じてやってた
わりとそうでしたね。ストレッチにしても、やりかたはいろいろあるんでしょうけど、とにかく体が硬くてそれが嫌だったので、中学生くらいから「じゃあストレッチを始めよう」と。結局40歳の今までほぼ毎日やってますから。
――子どものころはどんな選手だったんですか、ポジションとかは
ずっと後ろです。サッカーを始めたのがスイーパー。インターセプトとか、粘っこい守備とか、そんな感じでしたね、当初から。
――やっぱり足の速さには自信があった
スピードは当時から自信はありました。
――見た目のスタイルとしてはずっと坊主だったんですか
全然違いますよ。子どものころは、あまり短いことがなかったんじゃないですかね。どちらかといえば伸ばしてる方が多かったんじゃないですか。坊主は大学からです。大学2年からですね。
引退セレモニーでは最愛の子どもたちから花束が贈られた 写真提供/レノファ山口
――プロサッカー選手を意識したのはいつ頃からですか
中2とか中3です。Jリーグが始まった時ですね、本格的に意識したのは。それまでも日本リーグはあったので、ずっとサッカーを続けてそういう選手になりたいと思ってましたけど、Jリーグが始まってより現実的になりましたね。
――プロになる前に印象に残っていることはなにかありますか
中1の時だけクラブチームにいたんで、そこはわりと強かったですけど、それ以外はほんとにあまり強くない。特に大学、中学、小学校なんかはすごく弱くて勝つことが珍しいくらいで。結果を出したいという思いはずっとあって、その思いが強くて、強いところに行ってみたくて高校は四中工(三重県立四日市中央工業高等学校)に。結局、四中工でもあまり勝てなかったんですけどね。夏は全国出ましたけど、1回戦負け。冬は選手権に出れなかったんで。
――プロ1年目はどんなことを考えながらやってましたか
最初から試合に出させてもらっていたので、あまり考える余裕がなかったんですよ。1年目からリーグ戦フル出場で、毎週毎週、どんどん試合が来る。1年契約だったので、ダメだったら首切られると思って必死でした。
――引退発表後の取材時に、浦和で初めてタイトルをとった試合が最も印象に残っていると言われました。あの試合の事は今でもよく覚えてますか
そうですね。浦和にとって初めてのタイトルで、僕にとっても初めてだったので。顔に傷ができたりとか、いろんなものが重なって印象深い試合ですね。前の年にナビスコの決勝で同じ鹿島に負けてるんですよ。ようやく福さん(福田正博さん)に優勝させてあげられるチャンスが来たのに優勝させてあげられなかった悔しさが非常にあって。で、福さんは引退してしまってもういないけど、またそういうチャンスが来た。これを逃すわけにはいかないっていう思いで臨んだ試合でした。攻撃陣が爆発してくれて4-0で勝った。守備陣としてはやりやすいゲームだったなと思ってます。
――福田さんへのリスペクトですね
福田さんにはとても良くしてもらったんで。僕が入った時には福田さんと井原さんという大ベテランがいて、どちらかというと福田さんの方がワーワーいうタイプなんですよ、井原さんとは対極みたいな感じで。二人とも対照的な性格で、チームとしてはそのバランスが非常に良かったんですよね。
――井原さんから学んだことは大きかったですか
大きかったです。あれこれ、手取り足取り教わったことはないですけども、一緒にピッチに立って、井原さんと一緒にやっていたという時間。一緒に同じことを感じた時間っていうのは僕にとって非常に大きかったですね。
――今の坪井さんを形作っているところで、井原さんの存在は大きい?
それはもう、ピッチの上でもそうですし、ピッチの外でもそうですし、記者の皆さんに対しての対応とかもやっぱり井原さんを見て自分で学んだことが多かった。多くを語る方ではなかったですけど、僕は井原さんを見てそうあるべきだと思ったことも何度もありますし、プロたる姿だと思っていたので。
――その当時、日本代表にもなりましたが、代表を意識し始めたのはいつ頃ですか
意識し始めたはプロに入ってからだと思いますけど、ほとんど意識したことないです。程遠い存在だったので。最初に呼ばれた時も「え?」って思いましたもん。
――手が届くような感じはなかった
僕がプロ入りしたのは2002年の日韓W杯の年だったんですよ。なので漠然と代表選手にはなりたいと思っていましたけど、それが目の前にあるとか、もうちょっとで手が届くとか、そういう風には思ってなかったです。漠然と、頑張って結果を残し続けていればこういう世界があるんだっていう。
――初めて呼ばれた時は
驚きましたね。
――初めて練習に参加した時はどんな感じでした?
めちゃくちゃ緊張しました。同世代もたくさんいましたけど、同世代はみんなワールドユースとかに出ていて、僕はそれに一切関与してない人間だったので「相手にしてもらえるのかな?」とか。
レノファ山口での練習も一切手を抜かずに最後まで取り組んだ
――2006年のドイツW杯に出場されました。あの大会は今振り返ってどんな大会でしたか
うーん。残念でしたね。1勝もしてないので。もちろん決勝トーナメントに行くっていう目標はありましたけど、なんかもう少しだったって感じもなく終わってしまって。非常にもったいないというか、いい選手がたくさんいたんで、悔いが残る大会だったんじゃないですかね。
――そのW杯で一番印象に残っていることは
僕は初戦のオーストラリア戦で途中退場、足が4カ所つったんですよ、一気に。両足の腿前と腿裏が。
――それってもう歩けない状態ですよね
そんなことって普通ないじゃないですか。だからもう緊張と、異常に暑かったんですよあの年。で脱水と。緊張しすぎて前半に1回も水分補給してないんですよ、今思い返すと。水分補給するという事を忘れるくらい緊張してしまって。前半のことはほとんど覚えてない。後半ようやく身体が動くようになってきて、やっと慣れてきたと思ったら足がつってしまって。ほんとに悔いが残りますね。
――今までのサッカー人生で一番緊張したと言ってもいい?
もちろんです。僕はわりと、今もそうですけど、どんな試合でも始まる前には緊張するんですよ、どんな試合でも。レノファの試合もそうで、でも試合に入っちゃえばそれがいい緊張でぐっと集中できる。でも、その時だけは異常だった。僕はそういう経験をあまりしてこなかった人間なので、その経験不足を準備やいろんな部分で補えなかった。決しておろそかにしたわけではなかったんですけど、その経験不足を補うためにはもっと何かをしなきゃいけなかった。それができなかったことが非常に悔やまれますね。
――ワールドユースとか、そういう大きな大会に小さいころから出る経験っていうのは、やっぱり大きい
まあ、それがすべてだとは思わないですけど、やっぱり大きいですよ。そういう経験がない人間がああいう舞台に立った時、いくら準備をしてる選手でも、いつも以上の準備をしなきゃいけないって事ですよね。いつもやってる準備も普通の人より準備をしているかもしれない。だけど、それ以上のことをやっぱりやらないとその経験の差っていうのは埋められないと思う。
――代表の活動で、いい思い出と苦い思い出は
もちろんW杯は苦い思い出ですよね。いい思い出は…、あんまりいい経験してないのかな…、代表で。W杯の出場が決まった試合は、僕は出てなかったけど、すごくうれしかったです。代表は悔しいことが多かったですね。
――浦和の次に湘南に行かれました。3年間在籍されましたが、湘南時代で印象に残っていることは
湘南は、浦和よりもいろんな意味で規模が小さかったですけど、チームとしてのまとまりは非常にあるチームでした。僕がいた時はJ1に2シーズン、J2に1シーズンでしたけど、ああいう頑張れるチームがJ1で上位に食い込んでいけるようになると面白いなってずっと思ってました。
――曺監督の指導はどうでしたか。厳しかったですか
もちろん厳しいですよ。でも僕はその中に曺さんの思いや、熱意を感じていたので。僕は曺さんの下での3年間はすごく貴重だったなと思ってます。セレモニーのスピーチでも言ったように、湘南の3年間で人としての成長は非常にあったと思うので。どうしてもだんだん試合に絡めなくなっていった時期で、人間的な成長っていうか、そういうところでのメンタルの強さもそうですし、だからこそやり続けることの大事さ。もちろんそれは湘南の試合に出るっていう結果だけ見れば、いい結果ではなかったかもしれない。でもそれがあったからこそ山口の1年目があったと僕は思ってます。
ファンからも尊敬され、愛された坪井慶介 写真提供/レノファ山口
>>前編は、13年間所属した浦和、移籍した湘南、そして日本代表での活動について振り返ってもらいました。後編では、レノファ山口での2年間や初めて単身赴任をした山口県での暮らしについてなどをお届けします。お楽しみに!
坪井慶介-TSUBOI KEISUKE-
2002(平成14)年に浦和レッズに入団してプロのキャリアをスタート。2006(平成18)年には日本代表としてドイツW杯に出場し、日本代表として国際Aマッチ40試合に出場。2015(平成27)年に湘南ベルマーレに移籍し、2018(平成30)年からレノファ山口でプレーした。